御名を呼び求める


青年と牧師との出会い


今から42年前、一人の青年がキリストとの出会いを求めて、京都の聖イエス会嵯峨野教会に大槻武ニ牧師を訪ねて来ました。その時、大槻牧師は「あなたは、イエス様を信じていますか」と尋ねました。すると、その青年は「はい、信じています」と答えました。そこで、今度は「それでは、あなたは、イエス様をどう信じていますか」と牧師は尋ねました。けれども、その青年には、質問の意味がわからず、やはり「はい、信じています」としか答えることができなかったのです。そこで牧師は、「ヨハネ福音書第20章31節を声を出して読んでごらんなさい」と言いました。
「これらのことを書いたのは、あなたがたがイエスは神の子キリストであると信じるためであり、また、そう信じて、イエスの名によって命を得るためである。」
この御言葉を通して、牧師は、これこそは、ヨハネによる福音書の、そして、聖書全体の書かれた目的であり、また、聖書が啓示する救いの鍵(かぎ)であることを教えました。
この御言葉には、二つの大切な点が含まれています。
まず第一に、イエスがキリスト(メシヤ)、すなわち救い主であり、そればかりではなく、イエスこそは、唯一の真の神であると信じること、これが真の信仰であるということです。
そして第二に、イエスの御名(彼の本質)によって永遠の命を得るということです。この信仰の奥義を教わったその青年は、そのまま牧師の指導の下に身を置きました。

御名を呼び求める

それでは、実際問題として、「イエスの御名によって命を得る」とは、どういうことなのでしょうか。さらに具体的に言って、どうすれば永遠の命を得ることができるのでしょうか。
聖書はこう言っています。
「神がこう仰せになる。終りの時には、わたしの霊をすべての人に注ごう。……そのとき、主の名を呼び求める者は、みな救われる。」(使徒2:17,21)
「イエスの御名によって命を得るとは、「主の御名を呼び求めることによって救われる、永遠の命を得る」ということなのです。「イエスの名を呼び求める」ということは「イエス様、イエス様」と呼び求めることではありません。「イエス」というのは、神が人間になられた、その人間としての名であって、当時、ごく一般的な名でありました。
それでは、主の御名とは、どのような名なのでしょうか。
聖書はこう言っています。
「わたしは主である(我は主なり)、これがわたしの名である(神性を啓示する御名である)。」(イザヤ42:8)
「我は主なり」こそは、イエスの神としての御名なのです。そして、神の本質を啓示する御名は、聖書を見ると、全部で12記されています。

御名の福音は聖書的

旧約聖書の冒頭、創世記第4章26節には「この時、人々は主の名を呼び始めた」と記されておりますし、また、ユダヤ人の先祖、アプラハム、イサク、ヤコブも「主の名を呼んだ」と創世記に記されています。また「主の御名を呼び求める者は、すべて救われる」との言葉は、旧約のヨエル書の預言です。そして、新約の大使徒ペテロが使徒行伝の説教の中で、また、パウロがローマ人への手紙の中で引用しており、聖書の中で、計3回も記されているお言葉なのです。さらに、使徒行伝を学んでいきますと、初代教会の人々は、他の人々から「御名を呼ぶ(唱える)人々」と呼ばれていたことがわかるのです(使徒9:14参照)。
この御名の福音は、あくまでも聖書の啓示に基づいたものであり聖書がそのオリジナルなのです。しかし、長い歴史を通じ、キリスト教がヨーロッパ社会に広がるにつれて、キリスト教は形式化し、儀式化し、いつしかクリスチャンは「御名を呼ばない人々」になってしまったのです。
けれども神は、この終末期にもう一度、世々隠されていたこの奥義を啓示されました。そして、神は御名によって人間の内にお宿りになる、ということをあらわされました。

生ける水が川となって

それでは、私たちが主の御名を呼び求めるとき、どのような事が起こるのでしょうか。
聖書はこう言っています。
「祭の終りの大事な日に、イエスは立って、叫んで言われた、『だれでも(聖霊に、永遠の命に)かわく者は、わたしのところにきて飲むがよい。わたしを(真の神、救い主と)信じる者(信じて御名を呼ぶ者)は、聖書に書いてあるとおり、その腹から(人格の核心から)  生ける水が川となって流れ出る。』これは、イエスを信じる人々が受けようとしている御霊(みたま、聖霊、御名)をさして言われたのである。」(ヨハネ7:37〜39)
御名を呼び求める時、神はその御名によって、その人の人格の核心にお宿りになり、そして、今度は、その受けた御名がそこから川のように流れ出る。その時には、もはや自分が呼んでいるのではなく、内に宿られた主御自身が御名を名乗っておられる。これこそが聖霊を受けたことの聖書的な証(あか)しなのです。
「主の御名を呼び求める。」これは、子供であっても、大人であっても、老人であっても、だれにでもできる単純な信仰の行為です。そして、「御名が流出する」ということは、本人も周囲の人々にも、はっきりわかる体験なのです。
「これらのことを書いたのは、あなたがたがイエスは神の子キリスト(メシヤ)であると信じるためであり、また、そう信じて、イエスの名によって命を得るためである。」(ヨハネ20:31)
「主の御名を呼び求める者は、すべて救われる。」(ローマ10:13)
「今より、我は主なり!」

 ぶどう樹489号(1996年11月)


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