一粒の麦
「一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである。しかし、もし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる。」(ヨハネ12:24)
「一粒の麦」の一句は、聖書の中で最も良く知られている言葉の一つです。御承知のように、麦の実というものは、ただ安全に、倉の中に保存されているだけでは、実を結ぶことはできません。ちょうど、死んだ人が土の中に埋葬されるように、それが土の中に埋められる時に、はじめて発芽し、やがて穂となり、30倍、60倍、そして 100倍の実を結ぶのです。
ここで、「一粒の麦」とは、まずイエス・キリスト御自身のことを指しています。
神の子イエス・キリストが、一粒の麦となって全人類の罪の身代わりとして、十字架にかかって死んで下さったことにより、人類に罪のゆるしと、永遠の命が豊かに与えられるようになりました。
キリストの十字架の効力は無限でありますから、今日においてもなお、イエス・キリストを自分の救い主、自分の神と信じ受け入れる人々の心に、永遠の命の実を結び続けているのです。
次に、「一粒の麦」とは、私たち一人一人のことでもあります。人生には、さまざまな悩みや苦しみがありますが、多くの場合、その原因が自分自身にあることに人々は気がついていません。すなわち、「自分に死ぬことができない」ところに苦しみの原因があることに気づいていないのです。いつでも、「私が」「私が」と自己を主張し、自分だけが生きることのみを考えているために、多くの人々を傷つけ、平和を乱してしまうのです。そのような人生は、一つの良い実を結ぶこともできません。
それでは、具体的に「自分に死ぬ」ためにはどうすればよいのでしょうか。
第一に、イエス・キリストの御生涯を学び、キリストの心をあなたの心とすることです。
「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しょうとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」(ピリピ2:6〜8)
神であられるキリストでさえ、自分に死んで、これほどまでにへりくだられたとするならば、私たちは、どれほど謙遜なものにならねばならないことでしょうか。
第二に、「自分に死ぬ」とは、自分のことよりも、他の人のことを先に考えることです。聖パウロも「おのおの、自分のことばかりでなく、他人のことも考えなさい」とすすめています。アフリカの聖者といわれたシュバイツァー博土も「他者の幸福のために生きる人生だけが、真に価値ある人生である」と語られました。
第一にイエス・キリストの心、第二に他の人の幸せ、そして最後に自分のことを考えることが「自分に死ぬ」ということであり、豊かな実を結ぶ人生の秘訣なのです。
一に自分、二にも自分、三にも自分という自己主張の生き方からは、決して幸せな人生は生まれてはきませんし、他の人々を幸福にすることもできません。そこには、いらだちと不平不満、ぐちだけが残ります。
一にイエス・キリスト(Jesus)
二に他の人々(Other)
三にあなた(You)
この英語の頭文字をつなぎ合わせますと、JOY 「喜び」となります。あなたがこの順序を守り続けるなら、あなたの人生は喜びに満ちた、豊かな実を結ぶ人生となるでしょう。
あなたの周囲の多くの人々の幸せのために、あなたも一粒の麦となって下さい。イエス・キリストの御生涯を学び、キリストの心をあなたの心とするためにぜひ教会におこし下さい。
『ぶどう樹』388号(1988年6月)

コメント
コメントを投稿