日曜の朝。礼拝堂の澄んだ空気の中に身を置くと、神のみ声がひびいてきます。
「わたしはそこであなたと会い、あなたと語ろう・・・・・・」
「生まれた時は神社、結婚式は教会、死ねばお寺・・・・・・」
日本人について外国の人に話す時、こう言って説明しますと大層関心を示し、又感心もします。おそらくその宗教観の定まらないところにビックリするのでしょう。(この中で本人の意志を通せるのは遺言を別にすれば結婚式だけなのですが。)
ところで、「人生の新しいスタートと呼ばれる結婚式は、ぜひキリスト教の教会で」という人が多いのは、教会の特色をよくあらわしています。それは、教会と言う所が、文字どおり人生の新しい出発点となる場所なのだからです。
十字架
教会の規模によって、建物の大きさやデザインに違いはありましても、どこでも共通していることは、遠くからでもすぐわかるように高い所に、十字架が立っていることです。礼拝堂の正面にも十字架があって、ふつうそこに十字架につけられたキリストの像が置かれています。
人間には、目に見えるものを通して、目に見えないものへと心を高めていく能力があります。十字架につけられたキリスト像を見ることによって、心は次第にキリストに向けられ、2000年という歴史的なへだたりも、イスラエルと日本という地理的な隔たりも、完全に埋めつくされて、時にはまるで今、自分が、あの十字架の現場にいるかのようになって、そこで繰り広げられたすばらしい愛の光景の目撃者であるかのようになることさえあります。
この十字架こそは、わたしたちに対する神の愛が、目に見えるように現された所です。「愛の終着駅、それは十字架」と言われるのはそのためなのです。
十字架の下で愛と出会い、愛に魅了され、愛に酔わされた人々は、今度は自分も又、喜んで十字架を負って、キリストのあとについて行きたい、キリストのように考え、キリストのように愛し、キリストのように生き、そして、キリストのように死にたいとさえ願うようになります。それほどに十字架には、人間を根本的に造り変えてしまう不思議な力があるのです。
神との出会い
教会とは何をする所なのでしょう。聖書には教会の果たすべき役割についてのいろいろな事柄が書いてありますが、その中から、教会がもつ根源的な意味を、きわめて鮮明に示したみ言葉を紹介しましょう。
「わたしはその所であなたに会い、あなたと語る。」(出エジプト29:42)
一言葉で言いますと、教会とは、神と人間との出会いの聖なる場所であるということです。造物主と被造物との出会いの場所、永遠と時間との接触点なのです。
一披造物に過ぎない人間が、大宇宙を創造された造物主、万物の根源であられる神と出会う場所、それが教会です。今や日常生活のすみずみにまで押し寄せている機械化の波にのまれてしまい、ただもう忙しいだけ、という人間が、だからこそしばし時間の世界から解放されて永遠を思い、永遠者と出会い、永遠の命によって息吹かれ、神のいのちによみがえる所、それが教会です。
このすばらしい出会いをあなたに与えて下さるのがイエス・キリストであり、そのために奉仕するのが聖職者なのです。
それが大教会であれ小教会であれ、この点では何ら変わるところはありません。
御名——礼拝の頂点
それでは、ここでちょっと、教会の門をくぐってみましょう。もし、さんび歌が聞こえているようでしたら、もう礼拝は始まっているのです。それでは大切な待ち望みの静かな時を逃してしまったことになります。
「主よ、み前に待ち望む、語りたまえみ言葉を」という歌がありますが、この珠玉のように貴重な時間に、気持ちを静め、心の中の騒音からも解放されたいものです。
知り合いの方が一緒でしたら安心ですが、ひとりでも心配はいりません。受付で初めてであることをおっしゃれば、プログラムをもらったり、聖書やさんび歌などが借りられます。席は特別なことがなければ、どこでもかまいません。ただ一番後ろは意外に目につきやすいので、少し前の方に進んで行かれたほうが、説教もわかりやすく、雰囲気にもとけこみやすいようです。
さんび歌を歌い、祈りをささげ、聖歌隊の合唱、時には信徒の信仰体験に耳を傾け、やがて説教がはじまります。
そして、いよいよ礼拝の頂点——神との出会いの時が近づいてきます。説教を通して人々の心を十分ととのえてきた説教者が、「神は愛なり」「我は主なり」などと、主の御名を厳かに唱えますと、会衆は一斉に啓示された御名を唱和します。
「主の御名を呼び求める者は、すべて救われる」(ローマ10:13)と聖書にあるとおり、この時、キリストに心を向け、礼拝の精神をもって、主の御名をくりかえし唱えることです。
やがて心は高められ、神に近づき、神と出会うでしょう。その時こそ、あの造物主と披造物との出会いの時であり、永遠と時間とが接触する瞬間なのです。
主は仰せられます、わたしはその所であなたに会い、あなたと語る。私は主である。」
さあ、教会へ行きましょう。
『ぶどう樹』362号(1986年4月)

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