愛のしるし
十字架がキリスト教のシンポルであり、教会のしるしであることは、だれでもよく知っています。それでは、十字架にはどのような意味があり、教会の塔の上から、あなたに何を語りかけているのかを知っていますか。きょう、私はそのことをお話したいのです。
私がまだ幼かったころ、父が話してくれた一つの物語を、今も忘れることができません。それをまず紹介しましょう。
「あるところに、一人のとてもかわいい少女がいました。だれもが思わずふり返って見るほどかわいく美しい少女でした。ところが、少女のお母さんは、少女とは似ても似つかない黒く醜い顔をしていました。友達がお母さんの顔のことで、少女をからかったり、いじめたりするので、少女にとって醜いお母さんの顔は、いつも悲しみの原因でありました。少女は、お母さんが授業参観や運動会にくることを大変いやがっていました。友達のお母さんたちにくらべて、自分のお母さんがあまりにも醜く、みじめな思いをするからでした。
ある日、お母さんの顔のことで、また友達にいじめられ、泣きながら帰ってきた少女は、お母さんに言いました。『どうしてお母さんの顔はそんなに黒くてみっともないの。私は友達にとってもはずかしい。』そうして、また一層はげしく泣きじゃくるのでした。その時、お母さんは少女を抱きしめて、初めてそのわけを話してやったのです。『お前がまだよちよち歩きの赤ちゃんだったころ、いろりの中にころげ落ちて、火が燃えついたの。あなたの泣き声に気がついて、とんで行って炎の中から貴女を拾い上げた時、こんどはお母さんの着物に火が燃え移って、お母さんは顔に大やけどをしてしまったの。ほんとにまっ黒できたない顔になってしまって……。』少女は、しばらくお母さんの顔をじっと見つめていましたが、大きな目からぽろぽろ涙をこぼしながら言いました。『私のためだったのね。私のためだったのね。』少女はお母さんの顔にほおずりしながら『お母さん大好き。お母さん大好き。お母さんは世界中で一番きれい。一番きれい』といい続けるのでした。」
十字架の本当の意味を知るまでは、私にとって、十字架につけられたキリストの姿は恐ろしいもの、醜いものでしかありませんでした。しかし、あの日あの時、十字架につけられたままのお姿のキリストが、私の前に現れたのでした。もはや、十字架は2000年前の出来事ではなく、現在私の目の前に起こっていることでありました。キリストは十字架の上から、じっと私を見つめておられました。そして、やさしく語りかけられたのです。
「私は、お前のためにこうなったのだよ。お前を救うためにこうなったのだよ。」
その瞬間、私にはすべてがわかりました。私は涙ながらに十字架のもとにひれ伏して叫んでいました。「イエス様、わたしのためだったのですね。わたしのためだったのですね。」
十字架の上から再ぴキリストの御声が聞こえてきました。
「子よ、あなたの罪は今ゆるされた。」平安とよろこびが心の中からあぷれでました。その時から、イエス・キリストの十字架は私にとって、世界中で一番したわしいもの、美しいものとなったのです。
十字架、それは愛です。愛のしるしです。神があなたを愛しておられる確かなしるしなのです。
「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅ぴないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハネ3:16)
救いの切り札
「キリスト教の強味は、十字架をもっていることだ」と世界的な禅の大家鈴木大拙氏が語られたことがありましたが、まことにその通りであります。キリスト教には、他の宗教がもっていない救いの切り札があるのです。歴史的事実である十字架こそがその切り札なのであります。
あなたも三浦綾子の有名な小説「氷点」をお読みになったことがあると思いますが、その中の一節を今おもいだします。美しい主人公である陽子は、自分が殺人犯の子であり、しかも、自分の父が殺してしまった娘の両親によって育てられてきたことを知った時、人間の罪というものがどんなに恐ろしいものであるか、どんなに多くの人を不幸にしてしまうものかを知っておののくのでした。同時に、自分自身の中にも罪があり、人々を不幸にする可能性を宿していることを知り悲しみに打ちひしがれ、自分に絶望し、人生に絶望してしまうのでした。ついに死を決意した陽子は、養父母に遺書をしるします。
「私は今まで、こんなに……ゆるしてほしいと思ったことはありませんでした。けれども、今『ゆるし』がほしいのです。……私の血の中を流れる罪をハッキリと『ゆるす』と言ってくれる権威あるものがほしいのです。」
この陽子の叫ぴは、自分の真相を知り、自分自身の限界を知った人間の魂の叫ぴではないでしょうか。本当の心を持った人間であるならば、だれでも、生まれてから今日にいたるまで、人に対して犯した罪やあやまち、自分のみにくい心をハッキリ「ゆるす」と言ってくれる権威あるものを求めているはずであります。
ある宗教では、これだけの修業を行い、これだけの善行を積めばすべての罪はゆるされると説き、また他の宗教では、ただ神仏により頼めばよいと教えます。しかし、「罪」というこの背負い切れない借金は、だれかがあなたに代わって支払ってくれない限り、いぜんとして残っているのです。どの宗教にも決定的な救いの手段はなく、はっきりと「ゆるす」と言ってくれる権威あるものがありません。
しかし、ここに「十字架」という絶対の切り札(オールマイティ)を持っているキリスト教の力があるのです。
神は絶対の正義でありますから、罪を見逃すことも、汚れと妥協(だきょう)することもおできになりません。罪は罪として審判しなければなりません。しかし同時に、神は愛でありますから、一人の人が滅ぴるのもお望みになりません。それでは、この逆説、難題を神はどう解決されたのでしょうか。
神は愛でありました。神の愛は審判にまさりました。神は私たちに対する愛のゆえに、最愛のひとり子イエス・キリストをこの世界におつかわしになりました。そうして、罪ぴとである私たちを罰しないで、イエス・キリストに全人類の罪を背負わせ、身代わりとして十字架の上に死なせられたのです。
この完全な犠牲、流された尊い血のゆえに、神はイエス・キリストの十字架を、自分の罪の身代わりと信じ受け入れるものに、罪のゆるしと永遠の命を約束されました。聖書にこう明言されています。
「御子イエスの血が、すべての罪からわたしたちをきよめる。」(ヨハネ第一1:7)
「もし、わたしたちが自分の罪を告白するならば、神は真実で正しいかたであるから、その罪をゆるし、すべての不義からわたしたちをきよめて下さる。」(同1:9)
「イエス・キリストは、わたしたちの罪のための、あがないの供え物(身代わりの犠牲)である。ただ、わたしたちの罪のためばかりではなく、全世界の罪のためである。」(同2:2)
イエス・キリストが罪も汚れもない神のひとり子であり、その犠牲はあまりにも高価で完全なものでありましたので、それは当時の人々のためだけではなく、全人類の過去、現在、未来にわたるすべての罪の借金を支払うに十分なものでありました。
それゆえ、きょうもイエス・キリストの十字架は、罪がゆるされるための、唯一絶対の切り札なのです。
「わたしたちが、まだ罪人であった時、わたしたちのためにキリストが死んで下さったことによって、神はわたしたちに対する愛を示されたのである。」(ロマ5:8)
きょう、十字架を見上げましょう。
十字架、それは愛です。
十字架、それは救いの切り札です。
「神は愛なり。」
『ぶどう樹』325号(1983年3月)

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